雑記
家族史。
誰にも家族はあって、離散していても、孤児であっても、誰かのこどもではあるから、家族は存在する。
他人の家族史を、私は好んで読んだものである。
それは、作家や著名人のものであることが多かったが、家族史は、その人の秘密の最大のもののひとつであるといつも私は思っていたようだ。
それで、その秘密を読みたいがために、家族史を読むのだ。
家族史とは血の歴史のことであって、個人は血統の現在形である。
血統を語ることなく個人は語ることはできない。
避けがたく、個人は血統に包含されている。
私の血統。
しかし、父のことを語らねばなるまい。
私がまだ小学校にあがったばかりのころ、父は、川や山に私を連れてゆくのだった。
今、それは私の記憶に根深く残っている。
父は記憶に残っており、その旅の情景は、やはりずっと覚えている。
この情景は、内燃機関のごとく、私のある熱を産出する。
この情景。
こんな情景のある子どもは幸福である。
情動は軽んじてはいけない。
きっと情動で失敗したのだろうという大人が溢れている。
情動も教育も、軽んじてはならない。
こと、知的貧民層において、この教育を軽んじる傾向は著しい。
なにか、こんな階層を眺めていると、知的分断について考えさせられる。
おわり
性欲と情熱と社会
情熱の所在とは。
性欲がその中核的原動力になって、ピックアップ活動に躍起になる。
僕もそうだ。
性欲は、禁断の燃料である。
このおそるべき燃料は、石油なんて比べることができないほどだ。
生殖、女を妊娠させるための、その遺伝子の勢いにのった自分が、この燃料の前ではあらわれるのだ。
性欲の爆発的活力を、僕は意識的に使ってもいる。
禁欲である。
それはたしかに爆発的活力をうむのだ。
核燃料が、その扱いを間違えるとメルトダウンに至るように、性欲もまた同じである。
この禁断の魔力の扱いをま違えると、たとえば犯罪へとつながるだろう。
がまんできなくて、性犯罪に及んでしまったり、どこそこでセクハラなどしてしまうのだ。
いったいが、このピックアップには、社会性があった。
僕はただ性欲のためにピックアップをしているんではなかった。
かつての自分、女を十分に得ることができず、愛されもせず、といったその自分を、どうにかして克服し、かつてなかった、女からの愛を得る、そのためだけではなかった。
女を牛耳るためでもなかった。
それもあるが、それだけではなかった。
社会性を知ること、社会を知るための手段でもあった。
しかし、この社会を知ることが、より多くの女を得る、その手段でもあるのかもしれない。
となれば、やっぱり僕は、性欲によって支配された人なのである。
PUAとしての現在。与太話
人間に多面性と複合性があるように、僕にもある。
他人にもあり、僕にもある。
コロナ禍である。
僕も、よい歳になった。
だがPUAとしてまだまだ終わるつもりなし。進化する。
コロナもそうであるが、いつの時代も危機は、その人の本性と、能力をすべて顕在化させる。
危機は、無能のその無能っぷりを、有能のその有能っぷりをみせる。
しかし、僕の前職の連中などは、危機になるとほぼ全員が、その無能を顕在化させ、噴飯ものであった。
それで、自分はそうなってはだめだと思い、自戒の日々を送っている。
さて圧倒的なスト値が、あらゆる女を魅了することを僕は知っている。
メディアや、ネットにはひとつの使命がある。
それは洗脳だし、大衆の操作、支配である。権力は、支配し、操作しようとする。
学校教育は、凡人にまともな暮らしをさせるための職業訓練の場である、ともいえたが、
一方で、権力に都合のよい去勢された白痴をつくりだす装置、ともいえる。
ルッキズム、などと批判されるが、審美眼、美醜は人間の根源的なものであるだろう。
美しいものに生命としての強さと、有能さを感じ、醜いものに、生命としての弱さと、無能さを感じるそれは、そうなのだろう。
現実を歪めてはならぬ。
認知を歪めてはならぬ。
女も男も、美しいことや強いことは価値であり、醜いことや弱いことは無価値である。
メディアはこれを隠そうとし、みな平等などと宣伝して、収益をあげ、果実をすべて独占する。
テレビなんかみたらだめだ。
内省記:好かれたい心理
なにごとは圧倒的な成果をだして、評価を得たいと思う心理。
誰かになにかすごいと思われたい心理。
自分は誰かにとって重要な人間であり、人気があり、モテたい、と思う心理。
これこそは最も根深い心理のひとつである。
根深さは、どこにあるのか、根深さは、なんなのか。
人は、どうしてこんなに誰かに、それも大勢に、しかも社会的地位が高かったり、誰かから人気のある、モテる人間だったり、好かれたいのか。
そうなのだ。僕は、誰でもいいだれかに好かれたいわけではない。
誰でもいいから人気を得たいわけでもなく、誰でもいいからあなたの子どもがほしいと
懇願されたいわけではない。
社会的地位のあるものや、美人や、人気者、価値のあるとみんなに思われている者に好かれたいのだ。
そんな価値のあるとみんなが認める、希少性の高い人に好かれたいのだ。
誰からも見向きもされない、無能で醜い貧乏人に好かれたくなどない。
僕は、有能で美しい者に好かれたいのだ。
僕は無能な人間、醜い人間が嫌いで、それがどうしてなのか、と考える。
特に、勘違いしたブスや、性格のネジ曲がった非モテが嫌いだ。
僕は、素直な美人や、竹を割ったような性格の美男が好きだ。
だが僕は、そんな、無能で醜い人びとを軽蔑し、嫌悪している自分を、どこかで責めているのだが、これはどうしてなのだろう。
別に、漁師の呵責など、ちっとも感じなくてもよいのではないか。
影響力など、なにになる、などと思ったりもする。
ではまた。
自己中の病
さて僕は前回、太宰的なものと書いたが、これは一方では誤りかもしれないとも思っている。
太宰的なものは、他人を滅ぼしはしないのだ。
むしろそれは、いわゆるメンヘラと呼ばれるだけの、かまってちゃんであるだけで、かまってちゃんはただ、自己愛と自己中心性に毒されているだけで、他にはなんにもないのだ。
誰もが、自己中心性を僕にぶつけてくる、などというのが事実であるにしても、それは、それを受け止める環境と自分の心性がそうなせているのだ。
自己中心性が認められるのはどんな場合か。
その当人に魅力がある場合である。
ここに演繹すべき事実がある。
ではまた
太宰的なものとコロナ禍
一筆書き乱文ブログである本稿もまた、一筆書きなので誤字脱字は許してねとの内在的言い訳をもとに書かれるものである。
いったい、どうして太宰とコロナなのか。
太宰的なものとはつまり自意識的なものであるとここでは措定したい。
そして、コロナ禍は、曲芸のごとく見事に、人間の自己中心性と自意識とを露見させたのである。
いやきっと、かつてのペストや、スペイン風邪のたぐいもまた、人間の人間たるあさましい本性を詳らかに露見させたのであろうと、そう考えるのである。
僕はPUAだ。
芸術家ではないが、無数の女と関係を結び、さらに今後も無數の女と関係を結ぼうとしている手合いである。
そんな僕がどうして太宰的自意識と、社会性ウイルス禍たるコロナ禍について書くのか。
つまり、危機は平穏無事な時代には露見されない人間の本性を露出させるからである。
そして危機に至った弱い人物は、かつて社会性の中で中和させていた自意識の問題、孤独の問題に、むきあうことになる。
そのせいで、自分勝手な自意識と自己中心性とが、爆発するのだ。
コロナによって孤独になって、仕事や利害関係でしか人間関係を構築できていなかった弱者たちが、その対症療法を奪われたのである。
しかしこれは、逃げていた現実、孤独で信頼や仲間や愛を知らなかった現実に、対峙しているというそれだけなのだ。
孤独な人は、また、ある種のSNSなど、ネットの世界に逃げるだろう。
そしてまた、死ぬまでの、時間稼ぎとでもいうべき、誤魔化しの中に埋没してゆくことだろう。
僕は、孤独な人びとをみた。
彼らに共通するのは、強烈なまでの自己中心性だ。
どこまでいっても自己中心的な、その人間性だ。
彼らは、自分自身のその自己中心性によって、没落してゆくのである。
太宰の文学の価値は否定されるものではないが、太宰の人物はどうだろうか。
猜疑心と自己顕示欲の塊、自己愛の塊である彼は、誰かに信頼をされただろうか。
太宰の世界には、太宰にとっては、無限に、いつまでも、自分が世界の中心だったのだ。
それでも太宰を愛する者の気持ちはわかる気がする。
自己愛と、他社性と、善悪とにからめとられて、どうしようもなくなる、その自意識の病を、僕も知らぬではないからだ。
だが、自分のことばかりに興味があり、他者の悩みに真剣に耳をかたむけ、他者への愛によって、自分の命をなげうってもよい、と思えることのないその人間に、誰が信頼をよせるだろう。
どこかで、共栄のために、その使命のために、自己犠牲を問わぬとのその精神のないものに、いったい誰が信頼をよせるだろう。
信頼を寄せるのは、覚悟であるのだ。
コロナ禍が浮き彫りにした自己中心性は、今後、閉塞的な共同体の乱立という展開をみるだろう。
心弱き者は、得体のしれぬ宗教へと没入してゆくだろう。
僕にはそれがわかる。
自己中心性の病によって孤立した者は、宗教にすがりつくしかないのだ。
そしてその宗教は、思考停止と安逸の対価として、金銭と自由と奉仕とを
要求するだろう。
その利得のために、自己の増大のために、宗教という器は利用される。
自己中心性の病を脱するのは、ただ、愛と信頼と、勇気と知性である。
愛し、信頼され、愛されて信頼するのである。
愛と信頼にまさる価値が、今生にあるだろうか。
自己中心性により、愛と信頼に見放された者が、暴徒となっておしよせてくるだろう。
それを我々は、かつてのドイツ帝国や、劇場型大統領のアメリカにもみた。
暴徒は、物語によって扇動され、ごく簡単に、不義理に働くのである。
ぜひ、刮目してほしい。
共栄の論理が、ごく簡単に敗北するときがきたのだ。
太宰的自意識が、60年代の学生運動や、宗教のごとく、暴発するときがやってきた。
自己中心性の錦の御旗を掲げて、暴徒がやってくる。
どう生きるかは、どう死ぬかである。
君たちは、どう生きるのか。
さて、この一文は吉野源一郎氏の著作とはまったく関係がない。
一介の似非PUAアカウントに過ぎない僕が、なにを大業なことをいうのか、と思うだろう。
しかし、どう生きるかは、どう死ぬかなのだ。
書かれていたが、死ぬことは生きることの一部なのだ。
死というものを考えない人生は真の人生ではない、というのは、やはり僕の諦観ではある。
また、死というものについて真剣に考えた経験を持たぬ人を僕は信用しない。
死は、まざまざと、自分のこととしてとらえるべきことである。
明日死ぬかもしれないとの危機感のない人と、僕は根源的なところで共通言語を持たないのだ。
こんな事実に、齢30を過ぎてだろうか、気づくようになった。
場合によっては、僕らは、同じ日本語を使っているようで、そうでないのだ。
この文章を読んでいただいている奇特な方は、きっと「話が通じない」一群の人びとに、困惑したり、苛立ったり、立腹したりしたことがあるだろう。
この話が通じない、その話の通じなさ、いかにして話は通じないのか、どうして話が通じないか、などは、細谷功氏の著作「具体と抽象」などに明るいので、関心のある方は、手にとっていただきたい。
明日自分は死ぬかもしれない、そして死んだら天井の世界も、100人の処女とセックスできるなんてこともなく、ただ、生まれ出る以前の、永遠の無に帰すのか、あるいは物理法則によって、エネルギー保存の法則によって、なにごとか世界の一部になるであろうけども、その世界も宇宙論的にはいったい無とはなんであるか、などといった中学生の病を病んだ者と、病んだことのない者とでは、同じ言語体系を持たぬのである。
つまり話が通じない素地がある、ということだ。
この群の人びとは、哲学文学思想関係の本とか、イデオロギーといった言葉を理解することができない。
大きく分けて、人間はこの二種類にわかれるのだ。
この人は死んだらどうなるかとか、明日死ぬ恐怖とどう折り合いをつけているのか、どうなんだ!などと議論をふっかけるのは、むしろもっと話が通じない群の、自己中心性の病を罹患した中学二年生病患者である。
たとえば僕ら、3流のPUAであっても、どう生きるかを考えている。
必ずしもモテない自分の人生に、むなしさと、これではいけないと焦燥を感じて、
学生時代のモテなかった怨念と、なにもない青春を送ってきたその怨念とが、恋愛を謳歌してきた同級生たちに対する嫉妬とが渦巻いて、ではどう生きるかを考えるのだ。
そして、モテないことが、よく生きることに与せず、モテることがよく生きることに必須であるとの結論にいたるにつれて、どう生きるかを模索するのである。
そして、女を得るために、女を魅了し、支配するために、美しい女に子どもを産ませるために、ある者はナンパなどはじめるのだ。
だから、僕のごとき3流のPUAが、こんな、「どう生きるかはどう死ぬかである」などと語ることは、決して的外れなんかじゃないのだ。
PUAたちは、より多くの女を獲得するとの、その原始の本能に忠実たらんと、男性の本来的生活に回帰しようとしているのである。
そして僕は、この原始の男性の生活を、やはり礼讃するものである。
というのは、今、この共存と共栄のイデオロギー時代には、
男性特有の、攻撃性、狩猟本能、一夫多妻志向などは排斥される運命にある。
すべて、弱くてモテない男や女がこまるからだ。
男性の攻撃性、狩猟本能、一夫多妻志向、このすべてを、容認してしまうと、弱くてモテない
男女が、生殖にありつけなくなるのだ。
だから、弱者たちは、強く美しい者たちを縛る、足かせ手枷を発明したのである。
共存共栄のイデオロギーである。
男性の男性たるテストステロンによる攻撃性と、獣性を、剥奪するための社会システムを構築したのである。
言葉、ロゴスは、人間を獣から家畜化したのである。
アダルトビデオで自涜に及び、添加物まみれのファストフードを食し、SNSで自己重要感と承認欲求を満たし、自己中心性の病を罹患し、ゆっくりと、茹でガエルのごとく死んでいく。
すべてロゴスによる強者の家畜化が進行した賜物である。
ますらおたちよ、野性を取り戻せ。
知的な野獣たれ。
なんつって。
ではまた。