雑記
家族史。
誰にも家族はあって、離散していても、孤児であっても、誰かのこどもではあるから、家族は存在する。
他人の家族史を、私は好んで読んだものである。
それは、作家や著名人のものであることが多かったが、家族史は、その人の秘密の最大のもののひとつであるといつも私は思っていたようだ。
それで、その秘密を読みたいがために、家族史を読むのだ。
家族史とは血の歴史のことであって、個人は血統の現在形である。
血統を語ることなく個人は語ることはできない。
避けがたく、個人は血統に包含されている。
私の血統。
しかし、父のことを語らねばなるまい。
私がまだ小学校にあがったばかりのころ、父は、川や山に私を連れてゆくのだった。
今、それは私の記憶に根深く残っている。
父は記憶に残っており、その旅の情景は、やはりずっと覚えている。
この情景は、内燃機関のごとく、私のある熱を産出する。
この情景。
こんな情景のある子どもは幸福である。
情動は軽んじてはいけない。
きっと情動で失敗したのだろうという大人が溢れている。
情動も教育も、軽んじてはならない。
こと、知的貧民層において、この教育を軽んじる傾向は著しい。
なにか、こんな階層を眺めていると、知的分断について考えさせられる。
おわり