どう生きるかは、どう死ぬかである。

君たちは、どう生きるのか。

 

さて、この一文は吉野源一郎氏の著作とはまったく関係がない。

 

一介の似非PUAアカウントに過ぎない僕が、なにを大業なことをいうのか、と思うだろう。

 

しかし、どう生きるかは、どう死ぬかなのだ。

 

村上春樹御大の「ノルウェイの森」だか、「海辺のカフカ」でも

書かれていたが、死ぬことは生きることの一部なのだ。

 

死というものを考えない人生は真の人生ではない、というのは、やはり僕の諦観ではある。

 

また、死というものについて真剣に考えた経験を持たぬ人を僕は信用しない。

 

死は、まざまざと、自分のこととしてとらえるべきことである。

 

明日死ぬかもしれないとの危機感のない人と、僕は根源的なところで共通言語を持たないのだ。

 

こんな事実に、齢30を過ぎてだろうか、気づくようになった。

 

場合によっては、僕らは、同じ日本語を使っているようで、そうでないのだ。

 

この文章を読んでいただいている奇特な方は、きっと「話が通じない」一群の人びとに、困惑したり、苛立ったり、立腹したりしたことがあるだろう。

 

この話が通じない、その話の通じなさ、いかにして話は通じないのか、どうして話が通じないか、などは、細谷功氏の著作「具体と抽象」などに明るいので、関心のある方は、手にとっていただきたい。

 

明日自分は死ぬかもしれない、そして死んだら天井の世界も、100人の処女とセックスできるなんてこともなく、ただ、生まれ出る以前の、永遠の無に帰すのか、あるいは物理法則によって、エネルギー保存の法則によって、なにごとか世界の一部になるであろうけども、その世界も宇宙論的にはいったい無とはなんであるか、などといった中学生の病を病んだ者と、病んだことのない者とでは、同じ言語体系を持たぬのである。

 

つまり話が通じない素地がある、ということだ。

 

この群の人びとは、哲学文学思想関係の本とか、イデオロギーといった言葉を理解することができない。

 

大きく分けて、人間はこの二種類にわかれるのだ。

 

この人は死んだらどうなるかとか、明日死ぬ恐怖とどう折り合いをつけているのか、どうなんだ!などと議論をふっかけるのは、むしろもっと話が通じない群の、自己中心性の病を罹患した中学二年生病患者である。

 

 

たとえば僕ら、3流のPUAであっても、どう生きるかを考えている。

 

必ずしもモテない自分の人生に、むなしさと、これではいけないと焦燥を感じて、

 

学生時代のモテなかった怨念と、なにもない青春を送ってきたその怨念とが、恋愛を謳歌してきた同級生たちに対する嫉妬とが渦巻いて、ではどう生きるかを考えるのだ。

 

そして、モテないことが、よく生きることに与せず、モテることがよく生きることに必須であるとの結論にいたるにつれて、どう生きるかを模索するのである。

 

そして、女を得るために、女を魅了し、支配するために、美しい女に子どもを産ませるために、ある者はナンパなどはじめるのだ。

 

だから、僕のごとき3流のPUAが、こんな、「どう生きるかはどう死ぬかである」などと語ることは、決して的外れなんかじゃないのだ。

 

PUAたちは、より多くの女を獲得するとの、その原始の本能に忠実たらんと、男性の本来的生活に回帰しようとしているのである。

 

そして僕は、この原始の男性の生活を、やはり礼讃するものである。

 

というのは、今、この共存と共栄のイデオロギー時代には、

 

男性特有の、攻撃性、狩猟本能、一夫多妻志向などは排斥される運命にある。

 

すべて、弱くてモテない男や女がこまるからだ。

 

男性の攻撃性、狩猟本能、一夫多妻志向、このすべてを、容認してしまうと、弱くてモテない

男女が、生殖にありつけなくなるのだ。

 

だから、弱者たちは、強く美しい者たちを縛る、足かせ手枷を発明したのである。

 

共存共栄のイデオロギーである。

 

男性の男性たるテストステロンによる攻撃性と、獣性を、剥奪するための社会システムを構築したのである。

 

言葉、ロゴスは、人間を獣から家畜化したのである。

 

アダルトビデオで自涜に及び、添加物まみれのファストフードを食し、SNSで自己重要感と承認欲求を満たし、自己中心性の病を罹患し、ゆっくりと、茹でガエルのごとく死んでいく。

 

すべてロゴスによる強者の家畜化が進行した賜物である。

 

ますらおたちよ、野性を取り戻せ。

 

知的な野獣たれ。

 

なんつって。

 

ではまた。