太宰的なものとコロナ禍

一筆書き乱文ブログである本稿もまた、一筆書きなので誤字脱字は許してねとの内在的言い訳をもとに書かれるものである。

 

いったい、どうして太宰とコロナなのか。

 

太宰的なものとはつまり自意識的なものであるとここでは措定したい。

 

そして、コロナ禍は、曲芸のごとく見事に、人間の自己中心性と自意識とを露見させたのである。

 

いやきっと、かつてのペストや、スペイン風邪のたぐいもまた、人間の人間たるあさましい本性を詳らかに露見させたのであろうと、そう考えるのである。

 

僕はPUAだ。

 

芸術家ではないが、無数の女と関係を結び、さらに今後も無數の女と関係を結ぼうとしている手合いである。

 

そんな僕がどうして太宰的自意識と、社会性ウイルス禍たるコロナ禍について書くのか。

 

つまり、危機は平穏無事な時代には露見されない人間の本性を露出させるからである。

 

そして危機に至った弱い人物は、かつて社会性の中で中和させていた自意識の問題、孤独の問題に、むきあうことになる。

 

そのせいで、自分勝手な自意識と自己中心性とが、爆発するのだ。

 

コロナによって孤独になって、仕事や利害関係でしか人間関係を構築できていなかった弱者たちが、その対症療法を奪われたのである。

 

しかしこれは、逃げていた現実、孤独で信頼や仲間や愛を知らなかった現実に、対峙しているというそれだけなのだ。

 

孤独な人は、また、ある種のSNSなど、ネットの世界に逃げるだろう。

 

そしてまた、死ぬまでの、時間稼ぎとでもいうべき、誤魔化しの中に埋没してゆくことだろう。

僕は、孤独な人びとをみた。

 

彼らに共通するのは、強烈なまでの自己中心性だ。

 

どこまでいっても自己中心的な、その人間性だ。

 

彼らは、自分自身のその自己中心性によって、没落してゆくのである。

 

太宰の文学の価値は否定されるものではないが、太宰の人物はどうだろうか。

 

猜疑心と自己顕示欲の塊、自己愛の塊である彼は、誰かに信頼をされただろうか。

 

太宰の世界には、太宰にとっては、無限に、いつまでも、自分が世界の中心だったのだ。

 

それでも太宰を愛する者の気持ちはわかる気がする。

 

自己愛と、他社性と、善悪とにからめとられて、どうしようもなくなる、その自意識の病を、僕も知らぬではないからだ。

 

だが、自分のことばかりに興味があり、他者の悩みに真剣に耳をかたむけ、他者への愛によって、自分の命をなげうってもよい、と思えることのないその人間に、誰が信頼をよせるだろう。

 

どこかで、共栄のために、その使命のために、自己犠牲を問わぬとのその精神のないものに、いったい誰が信頼をよせるだろう。 

 

信頼を寄せるのは、覚悟であるのだ。

 

コロナ禍が浮き彫りにした自己中心性は、今後、閉塞的な共同体の乱立という展開をみるだろう。

心弱き者は、得体のしれぬ宗教へと没入してゆくだろう。

 

僕にはそれがわかる。

 

自己中心性の病によって孤立した者は、宗教にすがりつくしかないのだ。

 

そしてその宗教は、思考停止と安逸の対価として、金銭と自由と奉仕とを

要求するだろう。

 

その利得のために、自己の増大のために、宗教という器は利用される。

 

自己中心性の病を脱するのは、ただ、愛と信頼と、勇気と知性である。

 

愛し、信頼され、愛されて信頼するのである。

 

愛と信頼にまさる価値が、今生にあるだろうか。

 

自己中心性により、愛と信頼に見放された者が、暴徒となっておしよせてくるだろう。

 

それを我々は、かつてのドイツ帝国や、劇場型大統領のアメリカにもみた。

 

暴徒は、物語によって扇動され、ごく簡単に、不義理に働くのである。

 

ぜひ、刮目してほしい。

 

共栄の論理が、ごく簡単に敗北するときがきたのだ。

 

太宰的自意識が、60年代の学生運動や、宗教のごとく、暴発するときがやってきた。

 

自己中心性の錦の御旗を掲げて、暴徒がやってくる。