モテることの人生的意義

モテること、モテないこと。

 

僕はこれが、実は人生で一番大切なことなんじゃないかとも思っている。

 

学生のころ、それは小学生や中学生からだろうけど、モテる者はモテるグループにいて、ヒエラルヒーも上位

 

反面、モテない者は、モテない者どうしでつるんで、それでヒエラルヒーは低層

 

僕らは、そんなモテの現実にさらされてきて、モテる人間はモテる人間としての世界観の中で生きて、成長し、モテる世界観と価値観をもった大人になる。

 

モテない人間は異性に選ばれなかったその長い学生時代を通して、自分がモテない側の人間であることを、嫌というほどその深層心理に至るまで浸潤させられる。

モテない、異性から求められないということが、ほんとはものすごく重大な内的損傷を起こしているということについて僕は言っておきたいのだ。

 

ほんとうはみんな死ぬほどモテたい。

死ぬほどモテたいが、死ぬほどモテない現実に打ちのめされ自己防衛のような心理作用がはじまるのだ。

ほんとうはモテたいが、そんな、モテに興味がないふりをしたり、オタク的趣味に打ち込んでみたり、ただ、異常なまでの、モテ欲が解消されないがために、代償行為にはしるのである。

 

 死ぬほどのモテ。モテすぎてこまるほどのモテ。きっと絶世の美女や、芸能人レベルの男などはそれを体験しているのだろう。

 モテすぎてこまっている男女はもちろんより魅力的になる。魅力的であることが、その人をさらに魅力的にするという、おそろしい掛け算がはじまる。

 

おじさんたちはおそれている。

社会的肩書のなくなったときに、自分は、まったく誰からも相手にされないのではないかと。

 

そして、女には、見向きもされないどころが、ゴキブリのような侮蔑の視線をむけられるだけなのではないかと。

 

その恐怖は、正しい。

 

モテること、モテないことは、ほんとうは人間の根幹にかかわる最も大切なことである。

 

生殖の相手として選ばれるかどうかである。

 

こんなに大切なことは今生にはない。

 

だが、社会では真実は敬遠されるものだ。

 

社会では真実は歓迎されない。

それに、社会では、モテとは無関係に、あるいは、無関係であるかのように仕事をしていかなくてはならない。

 

書を捨てよ、ストへ出よう。

 

なんの肩書もない生の自分が、女たちにゴキブリのように打ちのめされる。

 

これまでの実績も功績も所得も社会的地位も関係がない。

 

ほんとはそれは、外面ににじみ出るので、関係がないわけではないが、だが、生の自分で勝負できるところが、ストなのだ。

 

スト。それは魔窟である。

 

ホテルに入り、さて行為が始まるという瞬間には、もうほとんどすべてが終わっている。

 

ストの楽しみのほとんどは、ホテルに入る前に終わっている。

 

ホテルに入ったあとは、まさかの陰部の汚臭などが待っていたりして、実際は、結構憂鬱なのだ。

汚臭や、感度が悪かったり、行為がへたくそだったりすると、興が冷めて、はやく帰りたいなと思う。一緒にホテルで映画をみても、盛り上がらないという、地獄もある。

 

ごく、つまらない女がいる。

だから、ストは、ホテルに入る前にはほとんどすべてその楽しみが終わっているのだ。

僕にとってのストはそういうものであるだろう。

 

ではまた。