ピックアップと自己の重要感

モテるモテない問題についてさらに掘って考えてみる。

モテるか、モテないか、こんなに重要なことはない。

昨今、流行語みたいな、自己肯定感とか、自己の重要感なども、ここに起因している部分が大きい。

 

自分を重要に思えるか、自分を肯定できるか、こんなに重要な精神要素もないだろう。

カーネギーじゃないが、僕らは、この自己の重要感のために生きているとすら思うのだ。

藤沢数希御大が、さきごろツイッターでも述べていたが、文明社会は、老人や病人を切り捨ててコロナを克服する、との選択肢をとることができない。

だからこそ文明社会なのだ、というような趣旨のそのツイートをみて、僕はこのナンパ、ピックアップ問題についてもそうであると思うのだった。

どういうことか。

ピックアップは、それだけでいえば、ただ性欲の解消の手段である。

ある者は、真剣交際の相手を探してもいるのだろうが、男女交際の真実のひとつは、性欲の充足だ。

セックスの充実していない男女関係は、恋人と形容するのではなく、友人や、パートナー、などというべきだ。

僕にとって男女関係、恋人は、まずセックスの充実が大前提だ。

非モテ時代は、そんな贅沢をいう立場になかったが、

選べる側の男は、絶対にセックスのよくない女とは長期的関係を構築しようとはしない。

性欲の解消は、原始の本能といってよいだろう。

対して、ピックアップ活動には、その性欲の解消というだけでは形容しきれないものがある。

それが、風俗、パパ活などで、手軽な性欲解消に及ばぬ一群の男たちの存在だ。

そう、ピックアップ活動は、自己の重要感を獲得するための活動であるのだ。

それは一例では、中年に至った男が、自分がまだ、なんの肩書も社会的地位もない状態で、若い女に受け入れられる、それも、引く手数多の、美しい女から選ばれるという現実は、どれほど中年の男の、自己重要感をみたすことになるだろうか。

僕にも10歳以上年下の女子大生のLTRがいたことがある。

その女子大生と歩いていると、なにかえもいわれぬ満たされる感覚があったことを覚えている。

若い女の子と、金銭を介することなく、自分の魅力だけでつながる。

こんなに自己の重要感が満たされることもない。

仕事の場面では、あなたがいないとまわらない、あなたがいないとだめだ、この組織にはあなたが必要だ、というようなことがいわれる。

 だがそれは嘘だ。

 それが嘘だと、やはりどこかで気づくのだ。

その嘘を信じることができるほどには、僕はマヌケではない。

 女が裸になって股を開き、コンドームを介さないセックスを受け入れるそのとき、

僕は自己の重要感に窒息しそうになる。

 美しく、誰がみても価値のある女であれば、そう思える。

 自分は、こんな美女から選ばれるほどに、価値のある男なのだと思える。

 この感触が、僕をピックアップに走らせる。

 だが、真には、ピックアップなどしなくても、女が寄ってきてしようがない、というところが、目指すべきところであるだろう。

 真にモテる男は、ピックアップなど不要なのだが、それは、ほんとうの男の頂点に君臨する、アルファオスだ。