世界内存在としてのPUA

今回も内省記

 

話が通じる、ということほどうれしいこともそうはない。

 

というよりも、日常的には、話が通じることは少なくて、僕はいつも演技的に他人に合わせている。合いの手や、傾聴なども評判がよい。

 

コミュニケーション能力が高いだの、人を束ねるのがうまいだのと評価されている。

 

そんな評価は世辞よりも、もっと現実的な、ほんとうの評価であるようだ。

 

そして僕自身のメタ認知によってもやはりそうだ。

 

僕は、チームを束ねるのがうまく、強行的なリーダーでなく、場合によっては、

トップダウンのリーダーであり、場合によっては、ただのみなのまとめ役や引き出し役であったりする。

 

だがそれは、無論、すべて演技によるものだ。

ほとんどひとつも、僕自身はいない。

 

だが、社会生活など、そこにふさわしい、その仕事にふさわしい自分を演じるというだけで、

他にはなにもない。

 

特に僕のようなサラリーマンにとってはそうなのである。与えられた仕事をこなす、ことが本懐となる。

 

クリエイティブで、事業成績をあげることが僕の仕事であれば、僕は創造性を発揮するというだけであるのだ。

 

話が通じる人間は少ないのに、僕は職場ではそのように評価されているのだ。

 

それはどうしてか。

 

僕が、その相手の役職や立場や知的レベルや生活背景や性格や性別やらによって話術もコミュニケーションも変えているからである。

 

こんな仕事術をもっている人も多いだろうが、世の中には、まったく自己中心的な人がおり、自分を強要してくる者も多いのだ。

 

話が通じない人は、世界観が違うのだ。

 

僕はいつも、遠く貧困にあえぐ第三世界のこどもたちや、中東の紛争の犠牲になる人間について、中国の迫害される少数部族、拉致被害者、性犯罪の被害者。ありとあらゆる人びとの認知とともにあるのだ。

 

僕はたしかに女が大好きで、無数の女とセックスがしたいわけだが、だがそれだけではないのだ。

 

僕もまた、世界内存在なのである。