ともだちの難しさ

誰しも友人はほしい。

 

気兼ねなく話すことができて、仕事で酷使した似非人格の、その反動である本心を纏った自分を、発露させる相手がほしい。

 

自分の話をよくわかってくれて、その相手の言うことも、よくわかるのだという、そんな関係の友人を、誰しもほしい。

 

だが、そんな相手はいないか、ごく少ないことを知るに連れ、ほとんどの他人は、自分にとってよい友人たりえず、自己中心的で、会話や行動も自分本位であるから、友達付き合いなど面倒が増えるだけで、それであればSNSで、いつでも離断できる関係性を求めるのは、これは当然であるだろう。

 

SNS時代では、こんな、村社会とは対極にある人間関係のありかたが、歓迎され、市井の人びとに、好まれるだろう。

 

誰しも、自分の都合のよいときに、自分の都合のよい話や愚痴や悩みや相談を、ただ理想的に聞いてくれる、という人間を求めている。

 

僕らPUAが、ヨネスケができて、いつでも泊まれる女を重宝するように、自分にとって都合のよい他人というのは、これは垂涎ものなのである。

 

もちろん、自分にとって都合のよいことが、友人関係にもあてはまり、当該人物といても、なにも自分は成長もせず、新しい価値のある情報も手に入らず、その人物を介して、新しい人間関係や世界が広がるわけでも、仕事の好機をえるわけでもなければ、まして、自分のストレスが解消されることもないとなると、これはもう、いったいどういう理由があってその人物と時を経るのだろうと、誰もが訝るだろう。

 

友人にもやはり条件があるのだ。

 

ただ、無能で無価値で、takerである人間が、友だちがほしい友だちがほしいなどと、自分の要求ばかり主張するそのことが、当該人物のtakerである証左なのである。

 

そういうことで、歩み寄り、互いにとって有益で、共栄することのできる相手こそが、友人の資格を得るのだ。

 

友達になるのにも、資格は必要なのである。

 

そして、魅力的な人物にとって魅力的であると思われる、そういう自分になることが、魅力的な友人をもつ唯一の方法なのである。

 

ではまた