人文科学を経由しない人生を送る人間について
僕には諦観がある。
この世の中には 人文科学を経由しない人生を送る者と、経由する者とがいる。
これがなにごとかの分水嶺である。
これが人間を大きくわけるのだ。
もっと端的にいえば、
なぜ生きるのか、なぜ事物は存在するのか、存在とはなにか、知るとはなにか、死んだらどうなるのかといった問題に拘泥する一群の人びとと、そうでない人びとのことである。
僕も幼少のころは、こんな悩みは、誰も、他人に言わぬだけで、誰しもが悩んでいるのだろうと思っていた。
どうもそうでなくて、こういう悩みに絡め取られて、がんじがらめになる、認識に認識を重ね、自意識が過剰になり、一人芝居をしてしまうとの、ドストエフスキー的人物こそ、ごく一般的なのだと、そういう人間が多きのだというくらいに思っていた。
だがみな、そんな悩みは他人にいうのがはばかられる、恥ずかしいものであるから、あえて言わぬだけで、誰しも一人寝床の中で、こんな問いに懊悩しているのだろうと、そう思ってもみたが、そんなことはなかったのである。
世界には、こんな悩みなど悩まずに、あまりに極端な障害が生起して落ちこんだりすると、ひょいと宗教だとかに飛びつくことで精神が安定する、そんな人びとが存在することを、もう30近くにいたるにつれて知ったのである。
この種の人びとは、あまりに自分と違う行動様式を有しており、わたしは分析評価するのに、時間をようした。
いやむしろ、まだその分析評価を終えていないのである。
それほどに自分と異質であって、この異質である者への想像力を発生させることに困難を感じるのである。
僕にはその語彙力がないのだが、絶望していないことが絶望的、との、某著名人の言葉を借りていうに近しい感覚である。
彼らは、死んだあとに天国にいくだの、霊魂だのといった話を、なんの疑いもなく信じているのである。
その虚構の強烈な磁場、人間支配には、サピエンス全史を待つまでもなく、まざまざと見せつけられるのである。
この種の人びとは、現代思想、哲学、純文学的書物を読むことがない。
読んでもなにがおもしろいのかわからない、退屈でしようがない、と感じるらしい。
人文科学を経由してきた者、もしくは、熱心な人文科学の学徒である者であれば、話が通じないと感じることも少ない。
ただ、たとえば、仕事上であるて特定のブルーカラーの人びとと話をしたりすると、まるで通じない、と感じることが多い。
抽象思考、抽象概念が理解できず、メタ認知とか、そういうことにもまったく理解がないのである。
おそるべき断絶が、この日本国内においても拡大していることを、僕は身にしみて感じている。
しかも、この傾向、つまり、抽象概念、見えないものに対する思考、想像する力などは、動画サイトや、インスタグラム、ティックトックの流行によって、より拍車がかかたように思う。
そしてまた、昨今の文学的流行においてもこれはみられるのだ。
このごろの若手の小説の類は、まったく文章が平易すぎて、よみごたえがないのである。
難解な文章が、いかに人間の抽象概念を想像する能力を鍛えていたか、よくわかる。
あまりにわかりやすい、平易な文章は、人びとの、抽象と具体のぎりぎりのところの想像力を刺激しないのである。
それで、抽象なのか具体なのかわからぬほどの、言語化を峻拒するところの、領域にこそ、人文科学的真理がたゆたっている。
この、非言語と言語の領域。
これが、思考や着想の源泉であるはずが、もう、ある人びとにとっては、この領域は存在しないのである。
別に僕はブルーカラーになにか含むところがあるというわけでもない。
ただ、仕事で、ある特定の、決して学問の修養度合いの高くないブルーカラーの人びとと会話をすることがあって、そこで、「通じなさ」の、ある領域にいたるとまったく通じなくなるその生態に、愕然とするのである。
彼らと僕とでは、同じ言語体系を保有していないのである。
この断絶については、もっと掘り下げて、解明してゆかねばならぬ。
ではまた。