リア充への憧れについて

リア充という言葉がある。

 

不遜にして、こんなネットスラングを知ったのは、僕はずっとあとになってからであった。

 

ネットにかじりついて、ネット弁慶であるが、現実世界では、小物で、うまくいっていない、孤独なヤツに対比してできた言葉であろう。

 

美形であって、友人も多く、恋人、異性にも恵まれ、絶えず人気のある者。

 

これをリア充というのだろうけども、ネット弁慶だと思いきや、実はリア充でもあった、ということもあるらしい。

 

こちらの、ネット上では非モテや非リアを自称し、しかし現実にはモテる、リア充であるとの、そんな手合いは、むしろ闇深いのだ。

 

ネットでイキる、というのは、まったく納得のいくことである。

 

現実で友人も少なく、異性にもモテず、仕事や学業や部活などもうまくいっていない、こんな人間が、身の危険のないところで、自尊心や自己顕示欲を満たしたいがために、イキる、との行為は、実によくわかる。

 

その気持ちは、よくわかる。僕にも思い当たることがあるくらいだ。

 

だが、リア充であるのに、ネットでは、非リアを装う心理とはなんだろうか。

 

これは、真に陽キャでない者が及ぶ行動ではないか。

 

真正の陽キャでない者が、リア充たる現実に倦みつかれて、それで及ぶ、この非リア擬態に、闇深いものを感じる。

 

つまりこの非リア擬態をする当人は、リア充である現実の自分に、無理があることを知っているのだ。

 

どこか、みんなでバーベキューをしたり、モテている現実であっても、そこになに頭の違和感を感じているのである。

 

この違和感の正体はなんであろうか。

 

推測としては、このリア充たる人物は、実はリア充でないというトートジーによって表現されるあるものである。

 

リア充属性の、陽キャでないのである。

 

本来は、非リア属性、オタク属性であるのに、その容貌の美しさなどから、リア充コミュニティの引力にひっぱられていった人物、ではないのか。

 

どうあっても目立つ、そんな容貌と、高いコミュニケーション能力から、オタク属性でいることが許されない、そんな立ち位置にいることになったのではないか。

 

だがこれは、社会人になってしまえば、オタク趣味を好むのであれば、簡単に趣味に没頭できるはずなので、やはり、学生時代限定の現象といえるだろう。

 

社会人になると、多様性がゆるされる。

 

なぜなら、社会には、とんでもない多様な人びとが、それを探そうと思えば存在するからだ。

 

だから、非リア擬態は、学生時代に限定されるのではないか。

 

さて、リア充への憧れである。

 

不肖、僕もリア充ではない。

 

かつてリア充であったこともない。

 

いやしかし、どうだろうか。今は、美しい正室とともにある。

 

美人のオンリー子がいるのであるから、どうなのだろうか。

 

ただ、僕の定義するリア充は、もっとそういうのではない。無限に友人に人気があって、パリピに近く、さらにパリピよりも知的にも民度的にも高い、そんなアッパークラスの人びとであるだろう。

 

社会人になってからのリア充とは、よい仕事をもち、さらに、よい人間関係と性愛と、友人とで、といった具合であるだろう。

 

僕はリア充ではない。きっと陰キャでも、陽キャでもない。

 

いやよくわからない。

 

しかし、リア充に根強い憧れがあることはほんとうである。

 

このリア充に対する憧れ、嫉妬についてもっと掘り下げていきたい。

 

中途半端に、ではまた!