内省記:コロナ時代のPUAと性愛

コロナ時代のPUAと性愛

 

さて、弊社でもリモートワークに形態変更して久しい。

 

今回は仕事論は触れない。

 

なにせ、僕も性愛の徒であり、PUAなのだ。アーティストというのは大仰だが、なにごとかの、趣味嗜好のひとつの形態、あり方として、PUAと自称している次第である。

 

実際のピックアップは三流であることをここに明言しておく。

 

今日、僕が考えてみたいのは、コロナ禍の性愛とPUAである。

 

コロナはただの風邪といって、自分は罹患しても平気だから気にしてない、と宣う人のこの姿勢について読み解いてみる。

 

今も指定感染症であるコロナに罹患して、病院、医療のすべてを圧迫し、自分がウイルスの指数関数的増加の引き金となり、撒き散らし、自分が増殖し感染させたそのウイルスが、何千人にも拡大。

 

拡大した、その感染者には、死亡者、失業者がいるだろう。

 

死亡したその者には遺族がいるだろう、職を失ったその者には、養うべき家族がいるだろう。

 

そのそれぞれの人を、大切に思う人がいるだろう。

 

コロナはただの風邪といって感染防止対策を講じない人は、自分が、それをすべて引き起こす、その端緒になっても平気だ、と言っているのである。

 

人は究極的には自分のためにのみ生きている、利己的な精神が人間の本質である、という思春期の学生じみた人生観の人もいるだろう。

 

それだから、自分が平気であれば、ウイルスの運び屋となっても、医療や経済のすべてを圧迫しても、自分のせいで、死亡者と失業者をだしても一向に構わない、という人はいるだろう。

 

それはたしかに、一面の真実である。ひとつの考えである。

 

僕は共存共栄こそ人生、みたいな価値観があるわけではないが、アンモラルに生きる!との価値観でもない。

 

確実なのは、このコロナ禍の立ち振舞い、で、その人の人間の、ごく本質的な部分が、露見したということである。

 

人生と世界に対する姿勢が、漏出しあるいは、隠されたものが、現れたのである。

 

僕はかねてより、人間は平常においてはその本質と本性がみえない、と考え、危機に陥ると馬脚をあらわすものである、との諦観によって生きてきた。

 

だから、仕事においては、危機が訪れるたびに、保身に走ったり、卑劣な行動にでる同僚を眺めて、それによって人間を判断し、あるいは知見を深めてゆく、との悪趣味をたのしんでいる。

 

危機にこそ本質が現れ、そのものの価値が判然とする。

 

いったい、僕のようなPUAもどきは、このコロナ時代を、どう生きてゆけばよいのか。

 

僕のような、とは、最愛の女はいるが、新しい女を定期的に獲得し、性交におよびたい、との欲求を持って、しかもそれを具体的行動、生活に膾炙している者である。

 

どこで女を獲得するか。女の供給源をどうするかについて。

 

3密と言われる場所は、もう、死んだ場所である。

 

新しい時代の、新しい規則に適応しなかればならない。

 

あたらしい規則とは、ウイルスである。それも、弱毒性のウイルスである。

 

文明社会と高齢化社会の弱点を、まさにピンポイントで突いてきたのが、このウイルスである。

これほど見事に、この文明化高齢化社会の弱点を突いてくるこのウイルスは、もはや芸術的である。

閉塞されたバーや、クラブ、人熱れでごったがえす場所は、選択肢から外れることになる。

 

そこはもう、感染の温床であって、しかも、そんな、感染拡大の温床となりうる場所に出入りするタイプの社会性の低い女は、僕の対象外の女である。

 

この社会性の低い女は、渋谷や新宿に大量にやってくる、いわゆるメンヘラといわれる人種で、低知能、低年収である。

もちろんこんな社会性が低くても、かわいい子はいる。

ただ、会話がつまらないのだ。

社会性の低い女は、自分が中心との世界観を根強くもっていて、だから、どうしても会話に横の発展が少ないのである。

 

コロナ禍で、感染拡大に与することなく、既婚者や、特定の本命女のいる男が、新しい女を獲得し続けるには。

これはやはり屋外のストか、出会い系のアプリなのであろう。

 

こんなごく簡単な答えに行き着くが、大切なのは、対象となる女たちの、ペルソナ分析である。

彼女たちがどんな女であって、なにを求めており、どうハックしていくか、ということである。

 

コロナ禍のこの時代で、いわゆるパーティのようなことができなくなっている。だが、社会性の高い者であっても、ほんとうはパーティがしたいのである。

複数人数で、たのしく話をする、というのは、全人類共通の喜びである。

 

しかし、他人と意思疎通をすることの難しい人間や、自分を中心に考えすぎて、コミュ障だとか自称する人間たちは、自分たちが、その中で、たのしめる会話を演出しあるいは協賛することができないから、その複数人数での集まり、を嫌うのである。

あるいは、嫌いな立場をとるのである。

 

複数人数での会話が好きじゃない、という者は、複数人数での会話が好きじゃない、わけではない。

ほんとうは、うまくたのしめないから、複数人数での会話が好きではない、だけであって、複数人数での会話や、盛り上がりそのものが嫌いなわけではないのである。

 

それが、うまくいって、自分の言っていることをよく理解してくれて、相手の言っていることもよくわかる、共感できる、との事態になれば、その人はぜったいに、複数人数での会話やあつまりが嫌いではないのだ。

 

そんなわけでいえば、コロナ禍では、多くの人が、この集団で飲んだりする喜び、を失ったのである。

 

集団で飲んだり、会話をする喜び。その、にぎやかな楽しさ。

 

こんなものが好きでたまらぬ類型の女もいるのである。

 

にぎやかなことが好きな層である。こういう女を僕は本命、第一恋人には選ばないが、

二番目以降の女であれば、喜んで、というところである。

 

なにを書くのか、まったくまとまらないが、あれだ、女のペルソナ分析の話であった。

 

だから、こんな種類の女達も、やはりコロナ禍であっても男を求めている、ということだが、本命同士というか、結婚相手を求めている、恋人を求めている男女、ではないのだ、僕は。

 

もっと、楽な、ただ肉体関係のある男女関係、というのが理想なのだ。いわゆるセフレである。

 

僕のもこんな関係の女はいたが、どれも、飽きてしまうのである。

 

美人でもないからだ。

 

僕の性友(!)は、美人じゃないのである。性格など、楽だし、よいのであるが、なにしろ美人でなく、まったくそそらないのである。

 

新規プレミアムというか、はじめの一回は、まずまず楽しめたが、それ以来は、性友でなく、ただの友人になっている。

 

だがこの不美人な友人は、話していて楽しいのである。

 

僕のピックアップ活動は、とにかく面倒な女は回避し、ヨネスケ限定、みたいな感じになっていて、コスパ重視なのだ。

それに、まあまあお茶を濁せるくらいは女遊びもしたので、数を積み上げたいというのはない。

質を一定程度重視している。

 

一人で読書したりネットをしたり、友人と飲んだりする時間を、越える価値のある女でないと、ワンナイトすらしたくないのだ。

 

これまで、ずいぶんつまらない美しくない女と寝てきたが、もう、そういうのはいらないと思っている。

 

なにか、美しくない女の生態と人生は、十分にみたのだ、という気がしている。

 

それよりも、美しい女の生態と人生を、もっと知りたい。

 

僕の本命は美しいが、二番目以降を美しくそろえるのは難しい。

 

僕の側のリソースが、限られており、その美人を獲得するのに足らないのである。

 

時間、金、である。

 

コロナ禍であっても、自分のやることの根幹となるものは同じだ。

 

この時間と金を獲得することであって、その上で、新しい女の供給が、無限にはじまるのである。

 

ではまた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

手持ちの札が少ないと判断を誤る。

手持ちのカード(女)の少なさと、執着について。

 

稀代の異才、チバ氏のブログにも記載があるが、女の連絡先の流入が途絶えない状態を作れとの教示である。

 

ただ、ごく単純なことであるのだ。

 

未知の女、まだ寝ていないが、寝てみたい女の、手持ちの札のことである。

 

この簡単な、手持ちの札が多ければ多いほど余裕がでて、一人のつまらない女に執着しなくなる、との対処が、僕はできていないのだ。

 

稀代の異才。チバ氏。

ナンパブログの頂点にたつのがチバ氏ではないかと思っている。

 

僕は、熱心なナンパブログの読者ではないけども、チバ氏のブログは、その守備範囲の広さと、常識人でありながら、光彩陸離たる戦績を持つであろうチバ氏こそは、異才であるといえる。

 

マインドブロックを外して、突き抜けて、異常者になり、非常識人となって戦績を上げるナンパ師は多いだろうけども、僕の憧れ、そうなりたいと思うのは、常識人であって、かつ、極めて優秀な戦績をあげることのできる、そういう男なのである。

 つまりβ擬態のできる、変身のできる、振り幅のある男

そんなPUAになりたいのである。

 

だから、突き抜けて、キチガイぶってしまった者。常識人のふりをすることをやめた戦士は、ちょっと僕の目指すべきところとは違うのである。

 

しかし、いったい、手持ちの札がこんなに枯渇するとは思わなかった。

 

これは僕が、本命と同棲しているためもあり、社会人として、負うべきでないリスクが、コロナ禍によって肥大してきた、ということがあるだろう。

 

僕は別に倫理に縛られるつもりもなく、社会通念が正義とも思っていない。

 

別に善人などくそくらえと思い、アンモラル礼賛の精神であって、偽善や道徳が大嫌いな質だ。

 

だが、このコロナウイルスについては、全体利益に与する立場であって、自分は重症化しないから関係なくパーティーにあけくれるということはしない。

 

僕は道徳も洗脳たる儒教思想もきらいだが、共存共栄の現代社会の論理には、賛成なのだ。

 

暴力、戦争、それが、人間の本質であるという論には、一切反対をしないが、僕は、ある美しい子どもが、美しい笑顔を維持し、美しい女が美しい笑顔を維持できる社会の構成員たりえたいのである。

 

そこには、その論理は、つまり共栄の論理なのである。

 

女遊びは、もちろん僕の下半身の欲動のためのものであって、僕はただ、新しい女体と、膣と子宮とを求めているだけ、ともいえるのだ。

 

それは僕をピックアップに駆り立てる、最も大きな動機である、といえるだろう。

 

僕もまた個の利益を追求するあるものだが、それだけでは納得しない遺伝子をもっているのである。

 

僕の細胞は、共栄のない個の利益追求に、アレルギーをおこすのだ。

 

そんな大仰なことを言っても、僕は、久しぶりにLINE交換したスト値4の女に、執着したりする、ひとつの小さな、男なのである。

 

手持ちの札が少ない、いわゆる、「非モテコミット」の閾値が下がりきっているのだ。

 

ごく小さい農村で、たった一人の村娘に恋したり、「アナタハンの女王」のごとく無人島で、何人もの男が、たった一人の、醜女を巡って争うようなものなのだ。

 

手持ちの札が少ない場合、なにごとも、この非モテコミットを誘発しやすいのである。

 

それは、こと、女関係だけでない。

 

抽象度をかえれば、人間関係においてもそうでない、職業選択、ビジネスにおいてもそうである。手持ちの札が少ないとき、人は、容易に合理的でない判断、誤った判断に及ぶのである。

 

なぜ、LINEが返ってこないのか。。。。。

 

 

 

 

 

さみしさとPUA

さみしさとPUA。

 

さみしいからピックアップ活動をしているのかもしれない、と話していた人がいて、僕の脳にはずっとその言葉がとどまっている。

 

人間のもつ寂しさの協力な磁力を、僕は知らないわけではない。

 

人間の持つさみしさ。

 

さみしい人間はモテない。

 

なぜさみしいか。

 

まわりに人がいない。孤独である。誰も自分という固有の存在をみてくれない。

 

誰にとっても自分はその他大勢である。

 

誰かにとって、できれば多くの人にとっての特別な人間になりたい。

 

それがうまくいかないとき、人は、さみしい、と感じ、さみしい人間、になるのだ。

 

さみしいと思っていることが露見している人間。

 

構ってほしいと思っている人間。

 

つまり非モテ非モテ非モテゆえにモテないのだ。

 

モテる人間はよりモテて、モテない人間はますますモテなくなる。

 

どうあっても、男が男でいるためには、修羅の道を歩まねばならない。

 

さみしさが漏れ出ていては女は寄ってこない。女は強くて聡明で美しい男で、他の女が

 

競って獲得しようとする、人気の男性をより好むのである。

 

ある種のブス。女の底辺のようなブスは、自身の安全のために、非モテと結婚したりするが、

いい女ほど、男くさい、強い男を選ぶのだ。

 

ブスほど弱い男を選ぶが、それは、ブスはいい男に相手にされないので、必要から弱い男で

手打ちにしている、妥協しているというそれだけなのだが。

 

今、僕にもやはりさみしさが醸し出されている。

 

ニューノーマルの世界で女のストックが減り、僕もさみしい男になっている。

 

がっついた、非モテになっている。

 

そんな気がしたりもする。

 

パラダイムシフトが必要なのかもしれない。

 

ではまた。

アイドル好きの男女

アイドル好きについて。

 

アイドル好きの女とは付き合うな。

 

アイドル好きの男とは関わるな。

これが僕の家訓である。

僕が考えた家訓である。

 

アイドル好き。

 

どこにでもいる、この人種。

 

僕はかつてアイドルの熱心なファンであったことはなく、また、これかも特定のアイドルの追っかけらしきことはしないだろう。

 

男女問わず、アイドルファンに共通するのは、その性的魅力の欠如であるが、これはもっと分解して考える価値のあることであるように思う。

 

モテないから仮想の現実、妄想の世界に生きて、それでアイドルファンやアニメファンになる、つまり、思い通りにいかない現実を生きるための麻薬あるいは処方薬としてのアニメ、アイドルを消費している、との見方である。

 

僕個人のことをいえば、極端なアニメファン、アイドルファンとは、どうしてか気が合わない。

価値観と世界観と、コミュニケーションがあわない。

 

僕が最も敬愛するのは、ギャルであり、ギャル文化圏であり、男であれば、ややチンピラに寄ったような、派手で男らしい、暴力の匂いのする文化圏である。

 

どうしてか、僕はこういうものが好きで、こういう人種が好きなのである。

 

そこにいくばくかの知性があれば、それはもっと好きだ。

 

隠しきれない知性と野性のある、ギャル、チンピラ。

 

対して、男らしくない男、峰不二子的女らしさのない女、森ガールとか、性的な匂いが消臭された人種が、僕はどうしても苦手で、魅力を感じないのである。

 

男であれば、男くさい感じが大好きだ。

 

男の色気のある、男くさい感じ。

 

任侠に生きるような男が好きである。

 

このギャルも、任侠の男も、現実の世界を生きているのである。

 

アイドルオタクや、アニメオタクは、僕にはどうしてもそう思えないのである。

 

この血の流れる、現実を生きている人間が好きで、その人間、二次元や、テレビの中に飾られたものよりも、生身の、妬み恨み、ズルく、愚かな、愛らしい、大義に死に、嘘で生き延びる、そんな糞をたれて尿を排出し、臭い、生身の人間が好きなのだ。

 

嘘にまみれ、世間語にまみれていると、ピックアップの世界の、女のあの露骨な反応がすべてたまらない。

 

その、ほんものの嘘のない現実がたまらない。

 

ナンパは自傷行為であるといった人がいる。

 

僕にとってはそうではない。

 

数少ない、真実の行動、真実の瞬間をみることのできる時間なのである。

 

現実を生きていない人間、モテない自分、無能な自分、孤独な自分

 

もっといろんな人から好かれて、人気者になりたい自分

 

ほんとうはそうなのだ。

 

人気者になって、自分にしかできない仕事をして、社会的にも認められて、女性からは愛され求められ、美女たちから交際や結婚を暗にせがまれる。

 

それを多くの人は求めている。

 

だが決してそうはいかない現実と、美しくない容姿を鏡の中に見て、どうみても無能な自分の仕事ぶりに絶望し、好かれようとしても相手にされず、軽んじられる、その人生の現実があまりに肉迫する。

 

そのときあなたはどうするか。

 

そのときのあなたの選択肢は、ひょっとしたらあなたが考えているよりもずっと少ないのかもしれない。

 

その現実を打開するために、何年かかったとしても、自己鍛錬の道にすすむか。

 

その現実を変化させることを諦め、別な世界に居場所をみつけだすか。

 

このふたつなのかもしれない。

 

そして、僕は自己鍛錬の道を選んだ。うまくいってはいないが。

 

そして、後者を選んだ非挑戦者たちと、話す言葉を、僕は持たないのだ。

 

長く苦しい道を選べ。

 

逃げるな、自己鍛錬の道を選べ。人間と向かい合え。

よいPUA同志、ウイングに巡り合うことについて。

よいウイング、よいPUA同志に巡り合うことについて。

 

僕はこの活動に至り、コンビ、ソロもたくさん経験してきた。

 

もちろん僕はPUAの本気クラスタではないので、一般的にいえばたくさん経験してきた、という意味だ。

 

完ソロという技法がある。完ソロというスタイルがある。

 

完ソロは、実地で鍛錬をするものである。

 

ボクシングでいえば、練習試合や試合をするようなものである。

 

だが、ソロなのだ。

ただ、たった一人で戦い、たった一人でその試合の分析と、勝因と敗因と考察しなければならないのだ。

 

独学である。テキストや、ネットによってこの独学をやることはできるだろう。

 

だが、やはり独学なのである。

 

独学で世界王者になったボクシングのチャンピオンはいるだろうか。

 

よいトレーナーがいたはずだ。

 

よき師がいたはずだ。

 

その選手の能力をひきだし、コーチングのスキルを使い、著しく成長させた者がいるのだ。

 

ソロは無限に独学であるが、コンビはそうではない。

 

コンビナンパは、ライフハックだ。

 

名ウイングは、すばらしいフィードバックにより、すばらしい学びを与えてくれる。

 

ぜったいにソロでは得られぬ成長である。

 

そして、我々はtaker(クレクレ君)であってはならぬ。

taker(クレクレ君)こそ非モテであり、孤独死へまっしぐらだ。

 

非モテはtakerである。

 

人に与えることのできない人間は、誰からも相手にされぬのだ。

 

その人と一緒にいてもなんの学びも成長もないとなれば、誰も一緒にいたいとは思わないだろう。

人間関係もコンビも、与え、与えられるものである。

 

互いが互いを成長させるのだ。

 

忌憚のないフィードバックと、トークの連携などはそのスキルである。

 

ただ、この界隈、僕にも苦々しい思い出があるが、taker(クレクレ君)と、自分がセックスすることしか考えていない者が多いこともまた事実である。

 

takerと自分優先型の人間とはほとんど同じ類型であるが、このタイプとの合流はほんとうに

非推奨である。

 

大変に不快な思いをすることは請け合いだからである。

 

takerは上質な女と長期的に関係を続けることができないが、それはすべて自己中心性によるものである。

 

自己中心性の病を病んでいる者は、やはりモテないし、愛されないのだ。

 

自己中心性と他者中心性とのたえざる葛藤の中に、人間の魅力とは輝くのである。

 

PUAの同志を大切にしよう。

 

それは自分のためにも、共栄してゆく同志のためにもである。

 

信義、友情を簡単に反故にする男は、女のみならず、男からももてず、やがてやってくる孤独な死を免れないだろう。

 

ではまた!

付き合わないとしないグダ

PUA界隈の者が、何度も遭遇するであろうグダ。

 

「付き合わないとしないグダ」について。

 

もう僕もいったい何度このグダに遭遇したであろうか。

 

というのは嘘で、実は、たぶんこのグダに遭遇したのは、4、5回だったかと思う。

 

僕はPUAとしては、三流で、経験人数も三桁には及ばず、決して「凄腕」と言われる階層にいる人間ではない。

 

さて、この「付き合わないとしないグダ」についてである。

 

認知心理学の用語に、スキーマなるものがある。

 

スキーマは、認知構造のことを指す用語であって、「意識の深いレベルにあるその人の信念や、深い思い込み」のことをいう。

 

「付き合わないとしないグダ」を発生させる女には、「付き合ってないのに肉体関係を持つのはふしだらである」「大切にされていない」「軽い女と思われなくない」などのスキーマがある。

僕が、ぱっと推測できるのはこの程度のスキーマだが、この他人のスキーマをどれだけ予想、想像できるかが、ピックアップの成功率を変えるのだと思う。

 

「付き合わないとしないグダ」を発生させる女達は、総じてイイ女ではない、というのが僕の経験則である。

 

イイ女、はそんなつまらない言語表現にこだわらない。

 

イイ女ほど動物的な直感というか本能が発達しているので、ノンバーバルによって恋をしたりする。

 

言語表現によって決定的に行動を変化させるのは、決まってつまらない文明に毒された量産型の女なのだ。

 

量産型の女は、思考まで量産型なのである。

 

「つきあわないとしないグダ」女※以下「つきグダ女」

の内在的感情・論理とはいかなるものか。

 

まず、この手の女が、交際していない男女はセックスしない、とのスキーマを持っている蓋然性が高い。

スキーマとは、その人物の世界観と価値観が混ざりあったものなのであろう。

 

するとこの手の女の世界観とは、付き合っていないとセックスはしてはならないとの世界観なのだ。

 

そしてそんな、交際していないとセックスしてはならないなど、現代における迷妄のひとつなのである。

 

一夫一妻制の迷妄であり、農耕社会の迷妄であるのだ。

ひとりの男、それも有能な男を確保し担保するための、女の生存戦略である。

そもそも「つきあわないとしない」などと宣うことそれ自体が、かなり恥ずかしいことである。

 

だが、この「つきグダ女」たちはこの種の羞恥心をもっていない。

この「つきあわないとしない」は、裏をかえせば、「付き合ってほしい」とのサインなのである。

 

ちゃんと好意と愛を告白してから、セックスに誘ってほしい、ということを、ノンバーバルで表現してしまっているのだ。

 

高学歴でしかも知的好奇心の旺盛な女は、こんなことを言わない。

 

たた、それでもある回避方法としての「つきグダ」もあるだろう。

たとえば、僕がある種の地雷女を敬遠したいがために、この反対の、量産型でかつ知的劣等生である男を演じるとする(別に自分は知的優等生ではないけど)。

 

「俺はちゃんと付き合ってからじゃないとそういうことしないんだよね、だから○○ちゃんとはセックスしないよ」

などと言う場合である。

 

僕は、こんなふうに面倒な男や、つまらない男を演じて地雷女を遠ざけることがよくある。

これは、女関係において非常に重要なやり方だ。

 

つまり、女をフッてはいけないのだ。

 

ほんとうに関係を断ち切りたい女には、自分に失望させ、その女自ら関係を断つように仕向けるのである。

 

こんな地雷異性回避方法として「つきグダ」を使ってくる女もいるだろうが、それは稀で、ほとんどは、あるスキーマによる、自動的な言葉として、「つきグダ」を口にするのだろう。

 

この「つきグダ」を口にする女の社会階層と、モテの階層も特徴的であると思う。

 

決して知的に高水準でなく、決してモテるわけでない女の一類型が、「つきグダ」を口走る。

 

さて、今日もこんな感じで、結論もなく、論理展開もまったくの途中で放り出す。

 

ではまた!

 

PUAは非常識人間

ピックアップ界隈が異常であるという認識について。

PUA界隈。

あるコミュニティにいて、そこにずっと在籍し、しかも外部コミュティとの接触が少なくなると、ガラパゴス化、閉塞によるドグマが形成される。

地方に特有の、あの村社会の文化である。

このコロナ禍が、地方人の百姓根性と、閉塞感を、より顕在化させた。

地方の、ネットネイティブでもなく、SNSを使いこなすことも、情報収集を主体的に

やることもない、テレビ放送によって世界観と価値観を固定され、メディアに洗脳された

者たち。

これはピックアップ界隈についても同じである。

同質化である。

付き合う人がPUA界隈の者ばかりになると、この活動の異常性がわからなくなり、これが普通であると思いこんでしまうのである。

だが、何十人も何百人も性体験があり、ワンナイトばかりしている、などというのは常識的ではなく、古風な考え、あるいは、常識人からは忌避される。

誰彼かまわずピックアップの話をしたり、女性関係の話をしたりする手合いをみかけることがあるが、TPOがずれている。

その場所、他者との関係性、自分の立ち位置などから、最もふさわしい会話を選ぶ必要があるのに、不意に女性関係の多さの自慢をはじめたりなど、痛々しいコミュニケーションをとってしまう。

こうなると、特定のコミュニティにしか在籍できなくなるのだ。

だから筆者は実生活ではそんなピックアップの話などまったくしない。

そんな話は、PUAの同志とのみ、話せるのだし、界隈の人間以外には話すべきではない。

このあたりの切り替えのできない者は、長期的には没落していくと思う。

ではまた。